流通を科学する -流通科学大学学長 石井淳蔵のページ- > 顧客の身になって考える
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更新日:2010年7月7日
日本各地に地場産業がある。兵庫県で言えば、豊岡のカバンや長田のケミカルシューズは有名だ。それ以外に、福井県鯖江の眼鏡のフレーム、新潟県燕三条の金属食器など世界に雄飛した地場も少なくない。価格が安くて、品質が良くて、決められた量を、決められた納期にキチンと納めるという日本のモノづくりの特徴が世界で高く評価された。しかし、そうした地場産業も、円高と中国の工業発展により世界の市場を失っている。
ここで紹介するA製作所は、新潟県の燕三条にある金属食器の地場メーカーである。同社も、1985年までは、売上の95%を輸出が占めるといった時期が続いた。しかし、同社も急激な円高と中国メーカーの躍進により世界の市場を奪われることになった。同社は、もはや大量に生産・販売するやり方での生き残りは難しいと考えた。そうした急激な需要の減退あるいは競争優位の喪失の中で、しかし、何が可能なのだろう。同社のとった方策は一つの道を教えてくれる。
同社は、指や手が不自由で、ふつうの人のようにスプーンを手と指でしっかり持って食事できない人のために、スプーンを作ろうと考えた。そのために、一つはスプーンの先を右あるいは左に傾けることにした。それにより、これまでのまっすぐに伸びたスプーンでは口に届きにくかった人にも使える工夫である。もう一つ、スプーンの持ち手の部分、グリップを手のひら全体で掴むことができるようなクリップを工夫した。しかし、このクリップの評判はあまりよくなかった。握力の強さや、指や手の動きの不自由さや、指や手の変形の程度は、人さまざまだったので、一つの型のスプーンでそれらの多様なニーズをカバーできなかったのである。
途方に暮れてしまったが、ある時、形状記憶ポリマーという素材があることを知って、それをスプーンのグリップのところに使ってみた。その素材は、熱いお湯につけると柔らかくなって、人の手に合わせた形に変わるという特性をもつものであった。したがって、スプーンのグリップの部分を指と手に合わせて暖かい湯につけると、その指と手にピッタリと合ったスプーンのグリップができあがることになる。この素材は、スプーンとはあまり関係ない重工業メーカーが開発したものであったが、スプーン製作にあたって共同開発の形をとることになった。
こうして、手や指の不自由の人たちのためのスプーンが作られることになった。私たち健常者には自分でスプーンやフォークや箸を使って食事をするのは平凡な日常だ。だが、こうしたスプーンがあって初めて、自分で食事を取ることができる人もいるのだ。「人に食べさせてもらうのではなく、食事を自分で取ることによって人間としての尊厳を保つことができる」という声をもらったという。
同社は利用者の想像以上の喜びに自信を深めたが、同時に、障害者用スプーンの制作は、「スプーンとはなにか」を考えるきっかけとなった。「スプーンとは何か?」と問われると、皆さんも戸惑うだろう。
ウィキペディア流に言うと、「食品や薬品をすくい取ったり、混ぜたり、量ったり、潰したりする道具のこと」。形状は、「ものを乗せる皿状の部分と手で持つための柄からなるもの」である。形状も、素材もそして種類も多様だが、ヨーロッパの食文化が生み出したものである。そのため、ヨーロッパ人の手・口・一口量に、合わせたものになっている。ヨーロッパ人にとって、持ちやすく使いやすい重さと大きさに作られ、またヨーロッパの食材が食べやすいようにデザインされている。
他方、日本ではどうか。わが国では、その種のスプーンは主にカレーと共に戦後家庭に普及した。それは、ヨーロッパで用いられているスプーンそのままであった。われわれが、カレーやシチューのときに使っているスプーンは、ヨーロッパで使われているスプーンとデザインはほとんど変わらない。
日本人の食生活に日本人の身体に合ったスプーンを開発する必要があるのではないか、とくに高齢者に向けて必要ではないか、と同社は考えた。
言われて始めて気がついたのだが、確かに今カレーやシチュー用に使っているスプーンは使いやすいものとは言えない。私が見るところ、欧米人は、スプーンの先をまっすぐ口に向けて、スプーンを口に運んでいる。そして、そのままスプーンの皿の部分を口の中に入れて、上唇を使って口の中に食材を取りこむ。他方、私たちは、スプーンをまっすぐに口元には持ってはこない、だいたい斜めから、45度くらいの角度でスプーンを口にもってくる。スプーンは斜めになって口にあたる。しかも、スプーンの皿の部分を口の中にガボッと入れるというより、スプーン皿の先の部分をちょっと口に入れる程度で、「吸い込む」あるいは「すする」という動作が優勢になる。私の感覚で言うと、カレー用のスプーンの皿の部分は口の中に入れるには大きすぎる。
こんな風に考えると、今使っているそのスプーン、どうも日本人の食生活や日本人の食事マナーにピッタリ合ったものではなさそうだ。とくに、それが高齢者や小さい子どもあるいはご婦人の方ともなると、不具合は小さいものではない。
そこで同社は、まず高齢者に向けて、食べやすいスプーンの開発を目指した。新潟大学の人間福祉工学科や日本歯科大学と一緒に、持ちやすいグリップ、口に入る皿の部分の大きさ・量・量・形状について、調査研究を重ねた。口の大きさ、食べる一口量、食べる角度、持ち方等については、そのための、ベースとなるデータとして、施設・病院の実際の高齢者ユーザーからの声を集めた。
そして、軽く、小さく、底の浅い、口のあたりがソフトな形状のスプーンが制作された。それらの一部は、下図に示される。

高齢者向けに製作されたそれは、しかし、高齢者だけでなく、幼児や子供や女性にも、そしてこれまであまりスプーンの機能や形状のことなど考えたこともなかった私たち普通の大人にも使いやすいスプーンであった。いわば、人に優しいデザイン、「ユニバーサル・デザイン」にほかならなかったのである。
A製作所は、事業のほとんどを占めていた海外市場を失った。だが、障害者そして高齢者という国内の小さい市場をターゲットとして事業再生を計った。この新しいスプーン製作を始めるまでは、「需要者からの注文があれば、それに応じて製作する」メーカーであった。「誰が、そのスプーンを使うのか」とか、「その商品は、どのような食事のときに、どのように使われるのか」ということは考えることもなかった。しかし、今は違う。「誰が、どのように使うのか」ということに着目したモノづくりを始めている。
この会社のビジネスの転換には、2つの教訓がある。一つは、顧客視点の大事さだ。「コストと納期だけをしっかり守ればよい」という生産視点、あるいは「作った商品の販路を開拓する」といった販売視点から脱皮した。つまり、「この商品は、どのお客さんに、どのように役立つのか」という使い手の視点での商品づくりへと切り換えたのだ。これは、「顧客視点で事業を考える」ことに他ならない。
第2に、ターゲットを絞ることの重要さを教えてくれる。障害者や高齢者という小さい市場に自身の事業のベースを置いたことで、彼の食生活や食スタイルに迫り、彼らが本当に必要とするものを見つけ出した。しかも、ターゲットとなった彼ら自身も、「自分がいったいどのようなスプーンを欲しいと思っているのか」、はっきりとはわかっていない。ニーズに応えるといっても、彼らの見えないニーズに応えるものであった。顧客を絞って、その気になって努力すれば、見えないニーズも見えるのだ。その努力の中で、「スプーンとは何か」、「食事するとは何か」の原点に関わった、これまでになかった新しい大事な知恵が誕生したのである。
〈了〉
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教学部社会連携推進課
担当者:平江 文乃
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