ピンチをチャンスに! 地元に根付いた商品で市民から愛される企業に
公開日:2020年12月16日
日本を代表する各業界の企業トップを講師に迎え、ここでしか聞けないビジネスの本質を学ぶ『企業論特別講義』。
第8回目となった12月9日(水)は、株式会社崎陽軒取締役社長の野並直文氏に、『崎陽軒 110年の歴史に学ぶ』というテーマのもとお話いただきました。
立地条件の悪さから生まれた、崎陽軒の『シウマイ』
明治41年(1908年)に横浜駅の構内営業社として創業した崎陽軒。当時は、牛乳やサイダーなどの飲み物、餅、お寿司などを扱っていたそうです。その後、大正4年(1915年)に駅弁の販売を開始。ところが、「東京駅から近いため、東からの乗客は東京駅ですでにお弁当を買っている。一方、西からの乗客はあと30分で東京に着くのにお弁当は買わない」という現状が。駅弁を販売するには、横浜駅は立地条件が良くなかったのです。
では、何を、どう売ればいいのか? 当時、小田原駅では名産品のかまぼこが、静岡駅ではわさび漬けが、よく売れていました。そこからヒントを得た当時の社長は、「横浜駅でも名産品を販売しては?」と考えましたが、横浜は新しい街。名産品自体がなかったため、新しく作ることに。そこで着目したのが、中華街の飲食店で突き出しとして出されていた『シュウマイ』でした。中華街の点心職人をスカウトし、約1年の試行錯誤の末、“冷めてもおいしく”、列車内で食べやすい一口大サイズの『シウマイ』が完成。創業20年後の昭和3年(1928年)、『崎陽軒のシウマイ』の販売がはじまったのです。
発売当初は売れなかったシウマイが人気になった理由
ところが、「発売当初は売れなかった」と野並氏。豚肉と合わせた帆立貝柱の原材料の高さにより、販売価格が高いのが要因でした。しかし、停車中の列車のお客さまを相手に窓越しに立ち売りする販売員を『シウマイ娘』として女性にしたことで、人気が出はじめます。『シウマイ娘』には、身長158cm以上の女性を採用し、全員赤い制服を着用。キャンペーンガールの先駆けとも言われています。昭和27年(1952年)には、毎日新聞で連載されていた小説『やっさもっさ』に『シウマイ娘』が登場。翌年には映画化されたこともあり、認知度が一気に上がり、結果的に『シウマイ』も売れるようになったそうです。
そして、昭和29年(1954年)、『シウマイ弁当』を発売。シウマイ人気もあり、発売当初から順調に売り上げを伸ばしていきました。
コロナ禍でも売り上げがアップした『シウマイ弁当』
シウマイ弁当は、シュウマイだけでなくご飯の美味しさも評判。炊き方にこだわり、おこわのようなモチモチとした食感に仕上げています。弁当箱も木の素材で、フタは蒸気を逃がすように、底板は汁物が漏れないような構造になっており、よりおいしく食べられる工夫が。また、ひょうたん型の醤油入れ『ひょうちゃん』も人気で、今ではマスコットキャラクター化しています。
そんなシウマイ弁当には「3つの側面がある」と野並氏。ひとつ目は、駅弁・空弁、という側面。ふたつ目は、運動会・謝恩会・野球場など行事ごとで食べてもらえるお弁当、という側面。最後は、『地元メシ』としての側面。このコロナ禍において、ひとつ目とふたつ目の側面では大打撃を受けたそう。しかし、『地元メシ』という側面においては「地元・横浜市民に深く愛され、コロナ前より売り上げがアップした」と、野並氏は言います。
“工場見学”が従業員のモチベーションを上げた
感染拡大防止のため、現在は休止となっていますが、崎陽軒では“工場見学”も行っています。「工場見学ツアーを企画したい」という旅行会社社長の声を受け、平成15年(2003年)に、見学者を受け入れられるよう施設をリニューアル。予想外の大人気となりました。野並氏は、「当初は、『見世物にされたくない』と反発していた従業員たちも、自分たちの仕事に関心を持ってもらい、見られることによって、明らかにモチベーションがアップした」と話します。また、NIKKEIプラス1では、『親子で楽しめる工場見学ランキング』で9位にランクイン。社会貢献・地域貢献として、大きく評価されています。
歴史から得られる【教訓6か条】
創業110年を超える崎陽軒には、長きにわたる歴史から学んだ【教訓6か条】があります。
- 差別化戦略
冷めてもおいしいシュウマイ・一口サイズ - ローカル色
横浜⇒中華街⇒シュウマイを開発。地元に根付いた商品を提供 - ニッチ戦略
大手が関心を持たない市場に目をつけ、深掘りする
(大手は、駅でシュウマイをテイクアウト販売する、ということに関心がなかった) - ハンディキャップ・ピンチをバネに
横浜駅は弁当が売れない駅だった=ハンディキャップが『シウマイ』を生み出すことに - フリーパブリシティの活用
自社に関する有利な情報(『シウマイ娘』の映画化、工場見学など)を報道機関に流すことで、社会全般との良好な関係を築く - 明確な事業範囲
崎陽軒はグループ企業や関連企業を持たない。崎陽軒1社で事業を遂行
自分たちの闘うべき土俵はどこか、を見極める
1人の社員の退職によって感じた、経営理念の力
社長就任時に、経営理念を策定した野並氏ですが、「はじめは壁飾りにしかならなかった」と言います。経営理念が力を持つようになった、と感じたのは数年後。1人の社員の退職がきっかけでした。新商品開発の担当だったその社員は、流行りのコンビニ弁当のようなものを作ろうと提案していました。しかし、崎陽軒の経営理念に反する、ということで上司からことごとく却下。結果、経営理念を理由に、その社員は退職したそうです。そのとき、野並氏は痛感したそうです。「ようやく経営理念が本物になってきた、と。同時に、経営理念とは会社の進むべき方向を指し示すものだ」と。